静かな山林に染み入るように、声が響きました。
これより このやぼに火を入れもうす
蛇 わくど 虫けらども 早々に立ち退きたまえ
山の神様 火の神様 どうぞ火の余らぬよう
また焼け残りのないよう
おん守り やってたもうり申せ
宮崎県椎葉村。深い山の中で、千年を超えて受け継がれてきた焼畑があります。焼畑の作業のはじまりには、虫や鳥、そして神様に対して、言葉を捧げるのです。九州の山間部にある椎葉村は、平家の落人伝説も伝わる地で、かつては日本の四大秘境と言われる奥まった土地でもあります。
そこで焼畑を代々受け継いできたのが、椎葉勝さんです。「昔は日本全国どこでもやっていたんですよ。今もやっているところはいくつかあります、でも生業としてやっているのは、うちだけかな」。山あいでは米が育ちにくい土地が多かったため、切り開いた土地を焼き、腐葉土と灰を混合して肥料としました。焼いたその年は蕎麦を撒き、2年目はヒエ、3年目は大豆・小豆を育て、そのあとはまた20年ほど土地を放置し、地力が回復するのを待ちます。「このサイクルに私は惚れたんです。まず、主食の蕎麦を作る。雑草が生え始める二年目は背が高いヒエやアワ、三年目は葉っぱが大きく遮光し、やはり雑草に負けにくい大豆・小豆。昔の人はよく考えている」。
焼畑では肥料も農薬も使いませんが、ぎっしりと実ったヒエは、自らの重みで緩やかに頭をかしげます。勝さんはヒエが茂る急斜面をするすると降り、ヒエの房を手に取り、日に焼けた顔をほころばせました。「1mmもない1粒の種から、これだけの種が採れるんですよ。ものすごいパワーがあるでしょう。しかも3皮構造になっているから、ちゃんと保存すれば30年はもつ。私は食料危機の時に役に立つんじゃないかと思っているんです。こうした雑穀を食べることも長寿の秘訣だと思う。90歳まで元気に過ごすのが人間の本当の生き方じゃないかなと思うんです」。あなたたちも皆んな食べたほうがいいよ、そう笑いながら取材する私たちにも薦めてくれました。
ヒエを精白するのは大変な仕事です。皮が硬い上にヒエ特有の油が出で機械作業を困難にするからです。「この作業がもう少し楽にできばヒエも商品にしやすいのだけれど・・・」と勝さんはいいます。かつて収穫したヒエは、冬の雪の降った日に、火を焚きながら焼酎を飲みつつ、家族で精白したそうです。今では全国的な民謡としても知られる椎葉の「ヒエつき節」はその夜なべの作業の時に生まれました。「作業の合間に暇を持て余すので歌いながらやるし、どんどん新しい歌詞を追加するわけです。夜なべをしながら精白したのはわしらの時代までかな」。
ヒエはそのまま炊いたり、米と混ぜて食べていましたが、椎葉では昔より「ひえずーしい(雑炊)」としても食べていました。勝さんの妻で民宿『焼畑』を共に営むミチヨさんがその作り方を教えてくれました。「ヒエは洗う時にあまり洗い過ぎないようにします。風味がいいから残さないとね。それから猪肉は、焦げるぐらいまで香りが出るよう炒めます。まず米を入れ、米がちょっとやわらかくなったらヒエを加え、じっくり煮ていきます」。途中でアクを取りながら、1時間ちょっと煮たてます。味付けは塩のみ。ヒエの風味と猪肉の旨味が染み込んだ、滋味溢れるおいしさです。「あなたたちが来てくれたので、今日は猪肉が多めなの」ミチヨさんは優しく微笑んでくれました。
ヒエと同じく焼畑で採れる、貴重な大豆から生まれた椎葉特有の料理が「ひきわれ」です。「今では菜豆腐とも言いますが、元々はひきわれ。どうしてひきわれっていうかというと、豆腐の中に菜っ葉がたっぷり入っているわけ。だから手で引き割って食べるからです。焼畑に生える「平家カブ」の葉っぱが一番美味しい。これを焼いて塩をつけて食べると、もう最高」。勝さんの顔がほころびました。
椎葉で古くより両親が豆腐屋をしていたという、清田泉さんに菜豆腐を作っていただきました。「このあたりは冬は20〜30cmも雪が降るんですが、平家カブは本当に丈夫で、雪の下でも元気なんです。だから冬の大事な栄養素だったわけです。昔は各家庭で石臼で大豆を挽いて作っていましたね」。豆乳と水をニガリ(苦汁)を入れて、さらに一度茹でた青菜を戻し、グツグツと根気よく沸騰させていきます。
「大豆は貴重品でしたから、カブの葉で少しでもカサを増すという意味も大きいんですが、この味わいが豆腐にが入るのがおいしいんですよ。だから一緒に煮るのが大事ですね。」竹で作った道具「サマ」を使って、全身で力を込めて豆乳を搾ります。煮立てて出来上がったばかりの「ゆるぎ」は、作る過程でしか食べられないご馳走。ゆるいほろほろとした出来立ての豆腐で、熱々でいただくと口の中で大豆と菜っぱのうまみがほどけてゆきます。
「久々に食べると美味しいですね。お袋が95歳で時々食べたいねえっていうので、年に1、2回は兄弟で作って食べるんですよ。今日作った分も持って帰って食べさせます。」と泉さんは作業しながら嬉しそうに話してくれました。
今では焼畑を継いだ勝さんも、一時は椎葉村を出たこともあったそうです。「若い頃に焼畑をやって面白いわけじゃないじゃないですか(笑)。二十年は村の外で暮らしたんです。それで逆に椎葉の良さがわかった。外からみて初めてね。もちろん厳しいことは多いですよ、不経済な仕事だしね。でも先人たちがずっと続けてきたことだから。今では都会の人もたくさん見にきてくれるんです」。焼畑を見学に来る人は多い時で140人も超え、中には海外から来る方もいるそうです。
これより 空き方に向かって捲く種は
根太く 葉太く 虫けらも食わんように
一粒万倍 千俵万俵
仰せつけやってたもり申せ
椎葉の土地に立ちながら、かつて一粒の種を拾いながら生きてきた私たちの祖先たちに思いを馳せました。生き抜くために得られた貴重な食べものを、たくさん工夫と知恵で、脈々と受け継いできた…それはまさに「生きる力」そのものでした。
茅乃舎1893プロジェクトは、食文化を伝えるプロジェクトとして始まりました。しかし椎葉に伝えられる食から、食べることはまさに生きていくことだと、改めて教えられたように思います。何でも便利に手に入る今の暮らしの中では、食べることと生きることのつながりを実感する機会は少なくなりました。今私たちに必要なのは、私たちの中にあるはずの生きる力を呼び覚まし、日々の食べごとと繋いでいくことかもしれません。少しでもその手助けとなるよう、茅乃舎1893から伝えていけたらと思います。
▼宮崎県椎葉村の動画もぜひご覧ください。
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